原罪の灯

ここに証そう お前の名を ご覧 あれが生命なる灯

希望の轍

一人の凡人が生き、そして死んだ後、残されるものは何でしょうか。

 

正解は、何もない、かもしれません。

でも、その人間に関わった周囲の人生の中には、その人が生きた軌跡が残されるように思います。

 

何者にもなれなかった。

この先も、何ひとつ、後世に残るようなものは作れない。

 

本当は、私は死んだ後に、誰の記憶にも残りたくありません。

ただ、今までの人生で亡くした人たちの軌跡は、私の中に確実に残っていて、魂などを信じなくとも、思い出として残されています。

そして時には、その思い出に勇気を与えられたり、その人生に思いを馳せたりします。

 

轍は、死にし後のみに残るものではありません。

その人の生き様、存在、それはどうしても形として残ってしまう。

 

私が今まで行ってきた、悪いことと、もしかしたら、良いこと。

 

存在意義がないことに、酷く恐れを感じて生きてきました。

両親は、私を愛していた、と言いますが、100点以外のケアレスミスを引っ叩かれていた時代、私の価値は彼らになかった、そう言っても過言ではない、少なくとも私はそう感じて、受け止めてきました。

 

細いロープを、踏み外さないように、恐々と生きていました。

 

ロープから降りた時には、既に私の中の何か大切なものは壊れていて、それからの人生は、それとの闘いの日々でした。

それでも大切なものを取り戻せなかった以上、その闘いは負けを喫し、誰が何と言おうと、私の人生は負けのままです。

 

それでも…寂しいから。虚しいから。心の欠片はまだ生きているから。

だから、他人の中に存在意義を求め、尽くすのだと思います。

 

私の生き方は、勿論褒められたものではありませんが、私の存在意義が、ほんの少しでも、誰かの心に、人生に、残っていればいい、そんな傲慢なことを考えてしまいます。

 

愛情の安売り、などと揶揄される私の人生ですが、今更もう、変えられない。

私は急にも、ゆっくりでも、止まることができない。

 

このままでいいのか、と自問自答しますが、このまま以外の生き方がわからない。

 

そして、そうやって、一人になり、無意味に人生を浪費して、さらに無意味に死んでいくのだな、と思っています。