耳に心地の良い言葉は、いくつもあります。
「誰かのために」も、好意的に捉えれば、自分勝手にならず、周囲の人のことを考えられる、と思われるかもしれません。
でも、私のそれは、そんなお綺麗なものではないです。
無私とは全く違う、セルフネグレクトに近いものです。
私には、私という、存在意義がありません。
自分のことこそ、どうでも良い。
明日死のうが、何も悔いはない。
ずっと昔から、人のために生きてきました。
家族を…家族に、怒られないため、良い結果を見せるため。
当然、破綻は訪れて、ほとんどの人間が一番輝いて生きられる時期に、心身を壊し、長く寝たきりになりました。
時は過ぎて、何とか気力が戻ってきた時に、私は料理を始めました。
家族が喜ぶように、家族の病気に対応するため。
形や相手は違えど、「誰か」の中に、常に自分の存在意義を置いてきたように思います。
そうすることでしか、物理的にも精神的にも生きられなかった。
家族と離れて、自分に向き合おうとしなかったわけではありません。
でも、いざ自分の中身を覗いてみたら、其処は全くの空洞でした。
そんなこと、最初から知っていたけれど。
今、側から見て私がしがみついているのは、現金かもしれません。
それとて、本当は自分のためのお金ではない。
ご飯は、少しは食べています。
倒れるわけにはいかないから。
入院するわけにはいかないから。
私の、たったひとつの願い、希望。
この世の、この私の中に蟠っている苦しみから、解放されること。
そうして、やっと幸せになること。
そのために、最低限の体力を保っています。
生きるために、食べる。それが普通のこと。
死ぬために、食べる。それは、私にとっては、普通のこと。
いつかその日が来るまで、私のことを消費して、本物の空っぽにしてほしい。
でも、それが徹底的にできる人は、もう近くにいません。
このままで、いい。
取り返しがつかなくなった頃に、自分の存在意義を自分の中に見つけてしまったら、それこそ、悲劇で喜劇だから。
全ての音は、ノイズにすらならず、私を擦り抜けていく。
全ての叫びは、誰にも届くことなく、発したその瞬間から、闇に消えていく。
眠りに落ちる瞬間が、好きです。
眠りは、仮死に近いというけれど、本当にそうでしょうか。
だから、だからこそ、せめて夢の中では、私を解放して。
おやすみなさい。