心機一転、記事を全部消しました。
また、垂れ流す言葉たちを、お気の向くまま、受け流してください。
来し方行く末、ということについて、よく考えます。
それは、いわゆる、過去、現在、未来にも似たものかもしれません。
でも、過去、現在、未来、というのは、便宜上切り取られたものであり、全ては1本の線で繋がっているように思います。
昨日の続きが今日であり、明日は今日の続きです。
ただ、今日が昨日の続きであるのは、ほぼ事実ですが、明日、今日の続きが営めるかどうかは、神のみぞ知る、であり。
だからといって、今日死んでも後悔のないように一日一日を生きるべき、などとは思いません。
病気や戦争で、目の前に死を見ている人間には、できるかもしれない、という程度のものだと思います。
私はといえば、来し方については、断片的な記憶しかありません。
強く記憶に残る事象の大半は、ネガティヴなものであり、もしポジティブな鮮烈な記憶が多々ある、としても、私はそれを羨ましいとは思わない。
海月のようにユラユラと、起伏の少ない、人生という一本の線を漂い、穏やかな気持ちで死を迎えるのが、理想です。
行く末は、それこそ私にも誰にもわかりません。
どこへ行くの、とよく聞かれますが、強いて言えば、自分の意思のみでどこかを目指そうとも思えず、流れゆくままに、たまに呼吸をする程度に、需要していけたら、と思っています。
人間の致死率が100%というのは、神が与えし福音でしょう。
終わりのないものは、美しくない。
矛盾するようですが、いつかは終わりが来る、という前提があるからこそ、日々が営める。
そして、それができる環境は、とても恵まれたものだと思います。
持てる者も、持たぬ者も、いずれは死ぬ。
あの世には何も持っていけない。
それなのに。
それこそが、私が、戦争や紛争に人一倍心を傷める理由かもしれません。
当たり前は、当たり前ではない。
その事を胸に生きていけば、少しはまともな人生を送れるのではないでしょうか。
コロナ禍に加えての、相変わらず平和でないことの起こっている世界を見るにつけ、明日、もし今日の続きができる可能性が高いのなら、感謝だけは忘れてはいけない、と思う今日この頃です。