原罪の灯

ここに証そう お前の名を ご覧 あれが生命なる灯

シャボン玉

引っ越しの段ボール詰め作業の合間、近所の喫茶店に珈琲を飲みに来ています。

浅煎りで淹れたアメリカンに、スジャータではなくて普通のミルク。いつもこれです。

明日、最後にまた来ようと思っています。

 

正しさとは!愚かさとは!と叫ぶのはカラオケだけにしますが、愚かさについて、最近よく考えています。

 

私は確かに、人としての行いは愚かで、選ぶ道も大抵愚かですが、真剣に努力して取り組んだ物に関しては、平均的な成果を出して来られた…つもりでした。

 

でも、お仕事で、パソコンのシステムが使えない、覚えが悪すぎる、と否定され続けて、もう、自分の頭は救いようのない程、愚かなのではないかと思っています。

 

「自分が愚かであることを知っている程度には、愚かではない」という言葉がありますが、その意味で言うと私は、本物の愚か者だった、ということになります。

 

普通、の定義は、あって、ないような物ですが、普通であろう方々にできる事が、全然できない。

 

それなのに、会話をしていると、頭の回転が早い、と言われる事が多々あって、それはますます私を混乱させます。

 

私の、愚かの程度は、どのくらいなのでしょうか。

 

知能を生かせる場所選びが間違っていたのかも、と思う事がありますが、それがわからない事こそが、愚かである事の象徴のように思います。

 

努力が報われるとは限らないどころか、報われない事のほうが多い、しかし、凡人は努力する事でしか道を拓けない。

大学院生の頃、自分に放った言葉が、今また自分に突き刺さっています。

 

強気に構えようと思っても、心折られ続けると、凡人ゆえに、力尽き果てそうになる。

なるけれど。でも。

 

泣いて済むなら泣きやがれ。

いつか報われる事を夢見て、努力と誠意だけで、まだしばらく、貫きます。

不器用だから、そういう生き方しかできない、そして不幸な事に、私はそんな自分の事を、大嫌いで、かつ、愛しているのです。

 

不器用で、傷だらけで、使えなくて、生きにくくて。

それでも生きて、そうして死ぬ。

ひとつの生き方として。

誰にも認めてもらえなくてもいい。

所詮、人生なんて自己満足。

 

報われたい、だなんて、烏滸がましい。

最近は、そう思って、淡々と感情を泳がせる努力をしています。