原罪の灯

ここに証そう お前の名を ご覧 あれが生命なる灯

朝になれば

以前書いたことと矛盾するようですが、人は毎日、起きる時に生まれ、眠る時に死ぬのだと思います。

その連鎖が、ただ、ひとつの人生と括られているだけで。

 

私は元々は朝型なので、大抵、0時過ぎに死に、5時過ぎに生まれ変わります。

 

起きる度、嗚呼また生まれてしまった、という感がないでもありませんが、朝は少し、新鮮な気持ちで過ごすことができる気がします。

 

昨日できずに死んだことを、行い。

昨日考えこんで鬱々とした考えに、折り合いをつけ。

 

あとは、朝、また生まれたことに、厭世的にならず、感謝できればいいのですが。

 

1日は24時間。

1時間は60分。

富める者にも、貧しき者にも、これだけは平等に与えられる客観的事実です。

 

ただ、金銭の多寡は、そう簡単に覆せませんが、同じ1日、1時間、1分を、豊かなものにするかどうかは、それぞれに与えられた権利であり、精神的な豊かさを得る余地のあることだと思います。

 

朝起きて、あれをしよう、これをして、その間にあれをして…と考えます。

それができていることが、今の私の救いかもしれません。

 

有限であり、いつ終わるかわからない人生を大切に、などとは毛頭思いません。

ダラダラとベッドでスマホの世界を泳ぐ。

それがその人にとっての充実なのであれば、それは肯定すべきことであるし、他人がどうこう言う話ではありません。

 

1日をどう過ごすかを決めるのは、人間に平等に与えられた、数少ない権利です。

お金が欲しければ、働けばいい。

余裕があるのなら、働かずに気の向くことをしたらいい。

 

ただ、茫洋と、気づいたら1日が終わっていた、というのは、避けたい。

私はそう思う、それだけです。

 

行く先は、けもの道だと、そう思っていました。

でも、踏み出そうとしたら、そこには、けもの道すらありませんでした。

何も、ありませんでした。

開拓民となって、自らの道を作るか。

或いは、来た道を戻るか。

或いは、ここで終わらせるか。

 

思考は回り続け、声は話し合い続ける。

私自身が立ち尽くしているのを、まるで嘲笑うかのように。