今日、私なりに、両親に引導を渡し、長かった物語に蹴りをつけてきました。
私はずっと、自殺することが、最大の仕返しだと思って生きてきました。
でも、違いました。
それでは、甘すぎました。
来年の両親の結婚記念日に、死ぬ予定でした。
自分の誕生日に死んで、産まれたことを否定しようかとも思ったけれど、災いの源を、もっと遡って否定してやろう、と。
嫌がらせとして、そのほうが上等か、と。
私が今死んだら、おそらく両親の記憶の中に私は、優しくて思いやりのある、大事な子として刻まれ、残ってしまう。
それは私の本意ではありません。
そんな甘い記憶に浸らせてあげられる程、私の傷は浅くない。
確かに両親は、たくさんの愛らしき物をくれました。
しかし、それは、同じ人間が与えた傷と苦しみと、相殺されてよいものではないし、してはいけないと思います。
彼らの言動として、傷つき、地獄に堕とされた記憶は鮮明にありますが、同じように、私の良いところを認めてくれた記憶もしっかりあります。
だから私は、命を捨てるのを一旦、やめました。
あとどのくらいあるかわかりませんが、残された命を使って、両親が好きだと思ってくれていた私を、一つずつ、この世から消していくことにしました。
何があっても、大事な子、だと。
それならば、大事だと思えなくなるまで。
この世に堕としたことを、後悔するまで。
私は、客観的に見た、自分の良い部分をそれなりに知っているつもりです。
だからこそ、それらを潰すことができる。
愛と憎しみが交錯し、それ故に苦しんできました。
他人のことなら、わかります。
いつまで昔のことに拘っているのだ、と。
鎖は切れました。
憎しみと共に、愛も捨てました。
一人になったのではない。
最初から一人だった。
両親の願いが、私が幸せになることなのであれば。
私は全力で不幸に突き進んでみせます。
人として大切にしてきたこと、それらを削ぎ落としていく。
堕ちて、堕ちて、できうる限り、堕ちて。
それが、正当な復讐であり、これからの私の人生の在り方なのだと思います。
自分は幸せになってはいけない、そう思っている人は多くいるでしょう。
私は、現実は不幸でしかないのに、自分は不幸になってはいけない、その思いにずっと苦しめられてきました。
両親に押し付けられた、愛のフリをした勝手さに縛られて。
やっと、目が覚めました。
不幸になっていい、むしろ、それだけが、傷を癒やし、両親に自分たちが何をしたのか、何を失ったのかを、思い知らせる術だと、今更気づきました。
今、とても穏やかな気持ちです。
長らく続いた家族ごっこに終わりを告げて、もう私は、何もしなくていいし、苦しまなくていいのです。
少なくとも今はまだ私は人間なので、簡単に振り切れるとは限りません。
法的には、まだ家族であるし、現実的な柵もあります。
でもそれらは、これから少しずつ切っていけば良い話であって、まず、私の感情から、その存在を消すことができました。
今はそれで、いいと思います。
もう二度と、私の感情に触れさせない。
もう二度と、私を振り回させない。
血の繋がりを重く感じてきた人生ですが、もう私は、誰の子供でもない。
私に家族はいないし、要りません。
こんな簡単なことに気づくのに、こんなに長い時間がかかったことが、恥ずかしくもあり、今となっては、おもしろくもあります。
母の服は全て捨てて、絆のひつじには、帰ってもらいました。
父に街で偶然会っても、それはただの他人です。
不幸に突き進むことは、幸せになるためではなく、自分が楽になるためです。
それしか、なかった。
歪な形であっても、自分が苦しみから解放される道は、それしか、ありませんでした。
自由になった私を、知り合いの方々には、傍観していていただきたい。
願わくば、私に期待するのは、もうやめてもらいたいです。
私はもう、人のためを思ったり、人に心を尽くしたりしていた、今までの私ではないので。
何かを得る為には、何かを捨てなければなりません。
私は、自分が楽になるために、丸ごと纏めて、「私だった誰か」を捨てます。
不幸を追い求めることで、苦しみから解放される。
絡み付くトラウマから
欠片を探すのさ
目を伏せたくなるような
パズルを完成させようか
さようなら、過去の私。
さようなら、かつて家族だった人。